黄檗宗普渡山
済福寺について

起源

四代目藩主直興公のご寄進により
城南の守護寺として建立
宗祖隠元禅師(※一)のお弟子にあたります
大虚道清和尚(※二)を開山に仰ぎ、
慧真によって開基されました。
大坂城落城当時、二十有余万人の戦没者供養の為に、
彦根藩四代目藩主 井伊 直興公のご寄進により、
中山道に面するここ、城南の守護に造られましたのが、
当済福寺の起源とも伝えられています。

※一 宗祖隠元禅師・・・江戸時代千六百五十四年に来日
※二 大虚道清和尚・・・彦根藩家老広瀬郷右衛門
の子として生を享け、十歳で出家され、
黄檗二代木庵禅師に仕えた

夢のお告げ

江戸時代の文化年間、十一代藩主、井伊直中公の時に作られて以来「芹のおおぼとけ、彦根大佛」の名で親しまれる。台座から光背までの高さが六メートルの寄木造で、日本最大級の木造地蔵尊と云われる。
その胎内には、直中公が寄進された「安産地蔵尊」が祀られ、安産、子宝の祈願寺としての信仰を集めています。

彦根大仏

月舟如棹和尚(五代目住持)と、十一代目藩主 井伊 直中公が時を同じくして、「京都市内の寺町に有る誓願寺の柳の根元に、地蔵菩薩の御頭が埋もれているから、これを礼拝せよ・・・」との夢のお告げを授かりました。姫の念持佛である安産延命地蔵尊を当山に寄進し、これを胎内仏として納め、京都の仏師早川兵次氏に命じて、一丈六尺の大仏延命地蔵菩薩を一八〇七年(文化四年)に完成させました。

おもかるの石

御地蔵様にお伺いする(質問する)石で二回持上げて感じた重さが変われば速やかに事が運ぶであろう。
お伺いの仕方
一、合掌をして一礼
二、石を持上げておろす(一回目)
三、両手で石をなでながら、一つだけお伺いをする
四、石を持上げておろす(二回目)
五、合掌をし「有難うございます」と一礼
◎お伺いした後の二回目の石の重さが一回目より軽ければ「良」

布団綿伝説

昭和三十四年七月、十二代 定信和尚が中風を患い、床に伏していた時のこと。日に日に衰弱の度を増し、再び元の身体に戻ることがないと半ば諦めておりました。

定信の妻 オステが、主人の病気治癒を毎日一心不乱にお地蔵様に御祈祷していた昭和三十四年七月のある日、定信和尚の寝ている布団綿を解いて日に干していたところ、オステの祈りが通じたのか、なんと「地蔵大菩薩」の文字が布団綿に浮かび上がっているではありませんか。定信和尚はその日を境に、
寝たきりからお参りに出掛けられるまでに回復したのです。これぞまさしく「地蔵大菩薩の御加護」でありましょう。

安置仏と
境内のご案内

安置仏

延命地蔵菩薩(えんめいじぞうぼさつ)
延命・利生(りしょう)を誓願とする地蔵菩薩
子供の守護、救済をする菩薩

子宝地蔵菩薩(こだからじぞうぼさつ)
通常、お地蔵さんが左手に持っている玉の代わりに子供さんを抱いておられます。

お釈迦様(おしゃかさま)
お釈迦様(おしゃかさま)仏教の開祖。


(現在の延命地蔵菩薩(えんめいじぞうぼさつ)が自坊に安置されるまでの本尊でした。)

虚空蔵菩薩 智恵の菩薩
人々に知恵を授けてくれると言われます。
十三詣りや、受験など合格祈願にお越しです。

大虚道清和尚 済福寺開山和尚
彦根藩士広瀬家に生れ十歳で出家し黄檗山萬福寺二代木庵禅師に師事

境内

開梆(かいぱん)
昼も夜も目を閉じない魚のように修行にはげめということ
また、「魚の梆」とも呼ぶ。大きな魚の形の法具で日常行事や
儀式の時刻を打ってお知らせする。木魚の原形とも言われる

雲板(うんぱん)
朝・昼・夜の食事の時を告げる
青銅製の雲形の板

生飯台(さばだい)
衆生のご飯台(餓鬼などに供えるご飯の台)

不許葷酒入山門
(葷酒山門にいるをゆるさず)
不浄なものや心をみだすものは寺門内に入ることを許さない

巡照板(じゅんしょうばん)
一日の始めと終わりに今日一日の精進を誓い自覚を促す為に打ち鳴らし、偈文を唱えます。